中川五郎治

吉村昭氏の”日本医科伝”を読みました。

日本の医学の新しい時代を切り開いた人物の短編集です。

山脇東洋、前野良沢、シーボルトいねなど知った人物もいます。

その中で特に印象的だったのが”中川五郎治”です。

江戸時代、蝦夷 択捉島の番人(見張り役)をしている時、ロシア艦隊に拉致されシベリアに送られてしまいました。

当時の日本とロシアの間には国境問題、樺太、北方領土の帰属問題もありかなり不穏な空気が流れていました。

シベリアでの生活も想像を絶するものであったと思われます。脱走、捕獲を繰り返しながら、人質交換のような形で何とか日本に帰ってきました。

異国に拉致され無事帰国を果たすだけでも命がけだったと思うのですが中川五郎治は日本帰還の途中のロシアの村落で医学書を手にし、その中で種痘法に興味を持つのです。種痘は天然痘予防のワクチン接種です。天然痘は天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症で疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)とも呼ばれます。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ致死率が平均で約20%から50%と非常に高く仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残します。独眼竜 伊達政宗公も幼少時に罹った天然痘で右目を失い、吉田松陰先生も天然痘のあとのあばたがあったそうです。

イギリスのエドワード・ジェンナーが種痘を開発したのが1796年です。中川五郎治がロシアで種痘法に関する書物を読み、現地でその技術を学んだのは1810年頃ですのでまさに最新の医療技術です。

なぜ北方の島の見張り役に過ぎなかった中川五郎治が医療に興味を持ち、更には最新技術の種痘法を学ぼうとしたのでしょうか?

日本に帰還した中川五郎治は蝦夷で種痘を実践します。1824年田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術と言われています。残念ながら開始したのが当時辺境の蝦夷地であったこと、中川五郎治が種痘を秘術とし周囲にあまり教えなかったことからあまり知れわたることがありませんでした。

日本の種痘といえばこの絵が思い浮かびます。

1849(嘉永2)年、佐賀城本丸内で名君と言われた佐賀藩10代藩主鍋島直正(閑叟)の息子の淳一郎(後の11代藩主直大(なおひろ))に種痘を施した様子を描いたものです(昭和2年 陣内松齢筆)。

中川五郎治のシベリアでの壮絶な漂流生活、医師でもないのに種痘に興味を持ち、それを実践していく人生は確実に日本の医療の発展に貢献したと思われます。

吉村昭氏にはこの中川五郎治を主人公にした長編小説の“北天の星”があるそうです。是非、読んでみたいと思います!

 

 

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